佐藤 園子

院長 伊藤 亨

誕生日
昭和49年1月10日
血液型
O型
星座
山羊座
趣味
読書(ビジネス書、感動する内容のもの、マンガ)、仕事?

幼少期から学生時代

岐阜県恵那市の自然豊かな田舎に三人兄弟(姉二人)の末っ子長男として生まれました。 穏和な家庭に育ちました。そのため、性格は温厚、争い事は嫌いというか、怖いので、ケンカらしい事もしたことありません。(根性がない?) 反抗期もなく、親から「もう少しヤンチャでもいいのに」と言われたことも。

小中と運動も勉強も成績は普通、成績表は3 か4。 高校は普通科。 可もなく不可もなくって感じの少年でした。

小学生の時は外でよく遊んでいました。虫なんかよく捕まえていましたね。春は蝶々、夏セミやホタル、秋は赤トンボやコオロギ取ってましたね。

あとは「ポコペン」って遊びと、サッカーをひたすらしてました。

あとキン肉マンが大好きでした。友情パワーとかめちゃ憧れでした。キン肉マン消しゴム、通称キン消しを良く集めてましたね。

中学生からはゲームにはまり、インドア派になりました。ファミコンにどっぷりはまり、友達の家に行っては良くファミスタをやっていました。ただ、風邪をよくひいたり、アトピー持ちで少し体は弱かったでしょうか。

高校でもゲーム好きのインドア派は変わらず、PCエンジン、メガドライブ、プレイステーションと買い替えていました。

部活も文系、五目並べクラブという名の帰宅部、体力が無く、マラソン大会の後も貧血になり保健室で寝てる事もありました。

特技らしい特技もなく、いたって平和に過ごした後、衣食住の仕事なら安定しているだろうという安易な考えと、食べる事が好きという理由で食品の勉強が出来る大学に行きました。 食品工業科学科という食品加工の勉強をするマニアな学科でした。

調理実習ではパンやみそ、はんぺんやこんにゃく、しょうゆも作りました。簡単なものしか作れませんが今でも料理することは好きです。(今は自動調理鍋ヘルシオホットクックが欲しい)

大学時代は何かやるぞと思い、軽音楽部に入りました。 バンドを組んだ友人の希望もあって、いきなりハードロックをやることに。 バンド名は”メタルクィーン”でした。(笑)

担当はベース、渋い感じでカッコいいと思ったから。 一時は髪も伸ばしてました。若さって怖いですね!全然似合ってなかった。 この時から、ハードロック好きになりました。 もちろん、カラオケも好きで良く行ってました。 大学時代は音楽にはまってました。

卒業。そして、現実。

卒業後は人と関わりたいという思いと勉強したことを生かしたいと思い、惣菜屋に就職。 天ぷらを揚げたり、寿司を握ったり巻いたりしてました。

日々、売り上げをあげる為に懸命に働いていました。 ある時、パートさんにどんな惣菜が買いたいのか聞くと「今はアレルギーを持っている子供が多いから、添加物とか気にするかな」と。

私の働いていた所は、効率を優先するため、調理らしいことはほとんどなく、冷凍食品を揚げたり、加工された食品をパックに詰めたりするだけでした。

大学での食品加工の勉強をしていたので、企業が食中毒を出すととんでもないことになる事はわかっていました。会社がつぶれるぐらいの損害になる。だから添加物を入れ出来るだけ日持ちするようにする、悪くならないようにする。

ある程度は仕方のない事だと思っていました。

でも現実はそれで苦しんでいる人がいる。

カゼも引きやすく、昔アトピーもあった私は、こんなんで良いのかと疑問を持ち始め、次第に健康への意識が強くなっていきました。健康系雑誌なんか良く買って読むようになっていきました。

 日々の業務にもんもんとするなか、このままこの仕事を続けるのが良いのかと思い始めていた時、帰り道で交通事故にあってしまいました。車が廃車になるぐらいの事故でした。

過労で判断力が鈍っていたと思います。

一歩間違えば死んでいたかも。

そんなこともあり、転職を考えるようになり、健康への意識が強くなっていた私は、何か健康に関する仕事はないか探すようになりました。

そんな時、カイロプラクィックというものを知ります。手技で人を健康にする。何か良い仕事だなー。 

そういえば、子供のころ、よくおばあちゃんに肩たたきしてあげていたなー。喜んでもらえる事がうれしかったなー。なんて事を思い出しました。

もしかして私はこの仕事が向いているんでは?と思うようになり、思い切ってこの業界に飛び込みました。

恵那から名古屋まで、カイロプラクティックの専門学校に通いました。2年間みっちり勉強と実技練習に明け暮れました。始めてやる気を出して勉強しましたね(笑い)

2年という月日もあっという間に過ぎ、いよいよ現場デビューとなります。

が、しかし始めは理想とは違っていました。

実際の現場では学校で習った事とは違い、なかなか体を良くしていく事が出来ませんでした。

人の体は教科書どおりではなく、揉んだり、関節をボキッと矯正しても簡単に治っていくというものではありませんでした。

下積みが大切だと思い、更なる勉強を重ねながらその後3年勤務地を変えながら頑張りました。恵那から名古屋市南区まで通勤したこともあります。それでも現場では相変わらずの状態でした。

治療家を目指してきたのに現実は違う。いつになったら自分の理想に近づけるのだろうか?

そんなことに疲れを感じるようになり、一度この業界をやめようかと悩む様になっていました。

そんな時、今のオーナーに再会します。

オーナーに「今の自分は治療に自信がない」と言うと オーナーはただ「心配しなくても大丈夫!」と力強く言ってくれました。 その一言に希望をもらい、この人の下でもう一度頑張ってみようという気持ちになりアオラニで働くことになります。

今、そしてこれから

そして現在、この業界に飛び込んでから16 年という月日が流れました。

まだまだゴットハンドとはいかないですが、今はようやく治療というものが出来る様になったと思います。 
以前は疲労回復協会という団体で技術を教えるインストラクターを、今はアイセラピスト専門学院名古屋校・校長として技術指導もさせて頂いております。

いろいろありましたが、今はホントにこの仕事を選んで良かったと思っています。 
今まで「人生が変わりました」なんて言ってくださる方もいらっしゃいます。

私は今のオーナーに出会っていなかったら夢をあきらめ、この仕事を続けていなかったでしょう。

今度は私が出合った方を幸せにしていく順番だと、勝手な使命感を感じてやっております。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

阿部 光輝

生年月日
昭和47年10月22日
血液型
B型
趣味
子ども達に遊んでもらう事・スーパー銭湯めぐり
資格
柔道整復師 巻き爪矯正師

幼少期から学生時代

昭和47年に大阪市で生まれた一人っ子です。父親が転勤族の為、幼少期には鹿児島や高松にいたらしいです。記憶があるのは幼稚園時の大阪府堺市からで、その後も転勤が多く小学校だけで4回変わりました。そのため環境の変化に抵抗が無く新しい場所や新しい事にチャレンジすることが好きになったと思います。

 

その中で、小学校四年生の時に母が亡くなり、中学卒業まで母方の祖母の家に預けられることになったのですが、それが大阪市平野区という下町で、工場や長屋・文化住宅が多く、環境的にはあまり良くはない地域なのですが、そこの水が思いのほか合っていたのか友達にも恵まれ、今でも連絡を取り合うのはこの時代の友人が多いです。

中学時代は祖母にいっぱい迷惑をかけましたが、祖母の厳しいながらも愛情を感じる教育もあったおかげで、ここでの経験が現在の自分の考え方の基本になっていると思います。

 

中学は水泳部のキャプテンをしていたのですが、高校入学後友達に誘われラグビーを始め、全力で人にぶつかっていく事が楽しくその競技に夢中になりました。

ポジションはFWと言うスクラムを組む方でフランカーでひたすらタックルに行っていた記憶があります。大学でもラグビーを続け関西大学Dリーグという一番下のクラスでしたが、四回生のときに入れ替え戦に勝ちCリーグに昇格したことが一番の思い出です。

 

その間やはり激しいコンタクトスポーツですので年がら年中身体のどこかに痛みのある状態で、何度も怪我をしましたが特に首・右肩・腰・右膝・右足首は程度が酷くプレーできない焦りと悔しさをよく感じていました。

早期復帰を目指して整形外科に通院するのですがシップや痛み止めの処方だけで治療をしてもらっているという感じではなく、不安でしょうがなかった記憶があります。ですがその当時の先輩に整骨院を紹介してもらい通い出したのが、この仕事との最初の出会いでした。

 

その整骨院は大学の近所にあり、体育会系ご用達で外傷が多く、テーピングなどの応急処置をよく教えてもらったりしてましたし、何といっても痛いながらもプレーできる状態にしてくれるのが嬉しくて、何か身体に問題があるとしょっちゅう通院していました。

今考えるとその当時の先生に無理なお願いをしていたと本当に申し訳なく思いますが、その時に漠然と人も役に立つ上に感謝される良い仕事だなと興味を持ったことを覚えています。

 

この仕事を志した理由

その後大学を卒業した時期が、バブルが弾け就職氷河期の始まった時期に重なり、苦労しながらもなんとかユニットハウスという建設現場の現場事務所に使う仮設機器の営業として大阪で就職することができました。ちょうど関西の震災の後で復興の為の現場が膨大な数があり、営業で入ったのですが最初の一年はずっと現場で職人をしていました。

その後転勤で岐阜に行き次に三重で仕事をしてきたのですが、初めての一人暮らしが楽しく激務なのですが遊びにも夢中になり無茶を続けていたためずっと体調がすぐれず、過労で倒れ人生初めての入院を経験したことから、自分の身体と健康という事を始めて意識したのを覚えています。

 

そのような経験と結婚もしたことで、ずっと本当にやりたいことは何なのかを考えるようになり、もっと何か人の役に立つ仕事がしたい、喜んでもらえる実感の持てる仕事がしたいとの思いから、この仕事をやりたいと一念発起し会社を辞め大阪の専門学校に入学したのですが、この頃に予定外の長男が生まれ最初に考えていた計画が崩れて、主夫・バイト・専門学校というサラリーマン時代以上に忙しい三年間を過ごしながらも、なんとか無事柔道整復師の国家資格取得することが出来ました。

 

挫 折

最初は何軒かの整形外科や整骨院での修業し、外傷の応急処置や脳梗塞などのリハビリなどいろいろな症状に対応する経験を積み、少しずつ自分の中で自信が持てるようになり長女も生まれ、一度は兵庫県西宮市で単身赴任にて整骨院を開業したのですが、保険治療での毎日毎日通院してもらい、やることといえば温めて電気を当ててマッサージの繰り返しだけでは、どうしても患者さんの体を治していくことができず、根本的な改善が見られない事が悔しくて、また、一身上の都合により、三年弱で閉院し治療家の道は諦めようと考え名古屋に帰って来ました。

 

その後は他の仕事に付き働いていたのですが、ラグビーの古傷である首の痛みから右腕に痺れと痛みが出始め、段々と痛みで寝れない日が出るまでになり、整形外科を回ってもレントゲンやMRIでは異常が無く、シップと痛み止めを処方されるだけで変化は無く、色々と評判の良い治療院やゴットハンドと呼ばれる所に通って治療を受けてみて、その場は痺れが無くなり良くなるけども、首や他の所に強い痛みが出て元に戻る事を繰り返してきました。

 

この時期は柔道整復師の資格を持っていても自分の身体さえ治せない自分に腹立たしく、また本当に自分の身体がどうなるのだろうと不安で仕方が無く、このまま仕事が出来なくなるぐらいに悪化するのではと真剣に悩んでいました。

 

転 機

そんな時に、このアオラニでやっている「疲労回復整体」の評判を聞き、一度治療を受けたところ、軽く身体を触っていくだけで何をされているのか全く分からず、ただ不思議な感覚だけが印象的でした。治療効果としては最初の変化はさほど無かったのですが、何か今までの治療と違い何かが変わっているような感覚があり、何度か通ってみようと思うことができました。通院を続けてみると少しずつですが痛みに変化が出始め、今までの様に痛みがぶり返すことなく、少しずつ痺れが取れてきたことに驚いたことを覚えています。

 

これは、まず体の循環を整え、姿勢を矯正し、自分自身で身体を回復させる状態を作り出すことで、弱っている身体に負担をかけることなく、ゆっくりと確実に無理なく身体を回復させていく事の大切さを実感させてくれましたし、この治療法の素晴らしさに感動しました。そして一度は諦めていた本当に治せる治療家になるという夢をもう一度目指してみたいと考え、このアオラニ整骨院に出会い、御縁があり働かせてもらえるようになりました。

 

意気込み

そして、この方法ならば私と同じように、多くの病院で異常なしといわれシップや痛み止めしか処方されなかった人や、色々な所で治療を受けてきても治らなかった人の長年の悩みを解決でき、喜んでもらえるのではないかと思っていますし、私自身もう一度、本当の治せる治療家になるという夢に、真正面から向かう決心をし、頑張っていこうと考えています。

 

ですので、あきらめる前に当院の治療を一度受けてみてください。多くの方の長年の悩みを改善し、本来の健康な身体を取り戻すお手伝いを全力でさせて頂きたいと思っています。

北村 優

出身
大府市
資格
鍼灸師
趣味・今ハマっていること
石亀

幼少期から中学時代

子供の時のことを思い出してみると週末に剣道をしていました。両親の話だと防具が歩いてるみたいだったと言うくらい幼い頃から剣道をしていました。剣道は好きではなかったんですが、小さい頃からしていたおかげで鍛えられたのか体育の成績は良かったです。だから今では感謝しています。

 

運動することが好きで、テレビの影響と近所のみんなで集まって野球をしていたこともありプロ野球の選手になりたいなと夢見るようになりました。土日に行われている野球のスポーツ少年団に入りたかったのですが、小学校の6年間は剣道をしていたのでかないませんでした。

 

小学校では、夏は水泳・秋は陸上・冬はバスケと季節ごとに行われるクラブ活動があったので運動好きな僕は全てに参加してました。これらのクラブ活動は全て市内の他の小学校との大会につながるものでした。

水泳と陸上は他の学校が強くて特に良い成績を残せませんでした。ただバスケットは、優勝することができました。

これがきっかけで中学では野球部に入ろうと何となく決めていたのですが、バスケット部に変わりました。

中学に入りバスケにますますのめり込むようになります。この頃にチームメイトから貰った1本のビデオから衝撃を受けます。当時、バスケは好きでしたがアメリカがバスケの発祥の国だとか、1番強いとか、プロがあるということなど全然知識がありませんでした。そのビデオは始まるなり、黒人選手のダンクの映像が飛び込んできました。「なんだこれは〜」ビックリしました。大きな人達がパワーとスピードを兼ね備え動き回りダンクあり、ノールックパスありと全てが格好良く見えました。バスケは自分がするのはもちろん楽しいのですが、見る楽しみも覚えてしまいました。大学の時に、憧れの選手マイケル・ジョーダンを生で見てみたいと思いアメリカまで行く程でした。

 

バスケに熱中した学生時代から整体との出会い。

中学から高校まではバスケが楽しくて部活をしに学校へ行っていたようなものでした。

メンバーにも恵まれ好きで打ち込んでいたこともあり中学の時も高校の時も何とか県大会までは行けるくらいの成績でした。

個人的にはキャプテンをしたりがんばっていましたが、中学2年の時に大きな怪我をします。右足首捻挫による骨折です。それまで楽しくバスケをしてきて怪我というものをしたことがなかったのですが、これが僕にとっては転機になったと思います。

捻挫をして1ヶ月くらいギプス生活をして、ギプスが外れると兎に角バスケが早くしたかったので足首が治りきる前に部活に復帰してしまいます。このことがこれから先のバスケ生活の中で何度も何度も捻挫を繰り返すことにつながってしまったと思います。

捻挫を繰り返しているうちに、足首の痛みはもちろんのこと股関節にも違和感を抱えるようになります。股関節はひどい時は痛みを感じますが、普段は違和感程度です。この違和感は寝る時などじっとしている時に感じやすく常に気になる存在になっていました。

 

そんな時に出会ったのが整体です。僕の体のこの嫌な違和感が整体をすると取れてしまいます。常に股関節のはまりが悪い感覚がありストレッチをしたり指圧をしたりして紛らわしていたのですが、整体を受けると股関節がしっくりはまり快適に過ごすことができました。これにも衝撃を受けました。

 

よく考えてみるとこれが、僕の整体師としての原点です。

 

整体を受けるようになったのは、就職してからだったと思います。中学、高校はバスケ命って感じでしたが、怪我もあり限界も感じ大学以降は趣味でバスケをしていました。趣味でバスケを続けていても捻挫はたびたびしていました。長年のバランスの悪さから股関節に不調が出るようになってしまいました。そんな時に友達が整体を受けているというので紹介してもらったのが初めての整体だったと思います。整体を受けると嘘のように違和感がなくなります。これは良いもんだと思い定期的に通うようになりました。この時は、体が楽になり体を気にせずバスケができるくらいの気持ちでした。ただ何年か経って、この技術は凄いなと思うようになりました。趣味ながらもバスケを続けていて、上手くなるにはとか強くなるにはと考えると筋トレで体を強化しようと考えていたのも影響していると思います。それで、もっと体のことについて知りたい勉強したいという思いが強くなり整体を勉強することにしました。

 

毎日練習の日々

整体の学校では解剖学の勉強が中心で骨、筋肉、神経について学び実技の練習をしました。この時は、仕事をしながら週末に勉強に行くという生活を送っていました。整体の学校を卒業してその道へとなるはずだったんですが、転職する勇気がでずそのままの生活を続ける毎日でした。整体の学校へ通っている時に国家資格を取ったほうが良いよという先生のアドバイスが頭の中に残っていました。

そこでもう一度、鍼灸師の資格を取るために専門学校に通うことにしました。

専門学校は3年間で、仕事をしながら夜間の学校へ通いました。1年目は新しい刺激を受け楽しく勉強してました。2年目になると国家試験のことを意識するようになります。このままでは、やばいと思い自分なりに猛勉強をしたことを覚えています。3年目は少し疲れてきて何とか持ちこたえ無事に試験に合格しました

 

はじめは鍼灸接骨院に勤めることにしました。
学校ではある程度体の知識を学ぶことができました。
ただ実践では何ができるかわからない状態だと思ったので、とにかく経験が積めるところが良いと思い土日も営業しているところにしました。

まずマッサージを覚えるために毎日練習の日々が始まりました。肩などに余分な力が入ってしまって患者さんの体に刺激がうまく伝わらなかったり、練習で親指が悲鳴をあげてペットボトルの蓋を開けることができない時期もありました。
次第に指も慣れてきてペット
ボトルの蓋も開けられるようになりました。

 

挫折と転機

患者さんの施術に入らせていただくようになり、マッサージを繰り返す日々が続きます。患者さんとも仲良くなり自分のマッサージについて聞いてみることにしました。

 

施術後は気持ちよくなったと言ってはくれますが、次に来てくれる時にはいつも肩はガチガチです。マッサージの効果はどのくらいもちますか?と質問すると夕方までかなとさらっと答えて頂きました。

僕の技術などまだまだ未熟だとはわかっていましたが、その方が来ると汗をかきながら 15 分全力でマッサージをしました。

 

その結果、朝に施術に来られて夕方には元通りになってしまうと知ってガッカリしたことを今でも覚えています。

そこから、自分のしていることに疑問を持つようになりました。

 

このやり方では、患者さんは変わっていかないのでは…。

そして今、アオラニで働かせてもらっています。なぜなら今まで学んできたこととは違う方法で施術をしているからです。違いとしては、1つ目にソフトな刺激で施術をすること。2つ目に症状が出ているところではないところが原因と考えて施術をしています。
できるだけ患者さんの体に負荷のかからない力で、症状の出ている所の負担を軽減し人が本来持っている自然治癒力で体の改善を目指しています。
こんな優しい刺激でと初めは思いましたが、強い刺激が患者さんの体を緊張させてしまってかえって悪くしてしまう事も学びました。人の体が持っている正常な機能を知ることが体の改善に凄く必要だと思わされました。
 
また、体を良い状態にするためには食事も大切だと考えています。食べたものが身となりエネルギーになると言うのは当然といえば当然かもしれませんが、僕がそう思うようになったのは体について興味を持つようになってからです。それまでは、自分が美味しいと思ったものを食べて空腹感さえ無くなれば満足していたのでそんなこと考えたこともありませんでした。体の中では代謝と言って常に体を維持するための化学変化が起きています。その化学変化を起こすために必要な材料がなければ機能できません。ですので、栄養面のアドバイスもできたらと思っています。
 
整体を通して皆さんの体を改善し質の高い生活が送れる手助けができるようにがんばりたいと思います。

柔道整復師 中野光典

生年月日
1969年11月3日
資格
柔道整復師、
カリフォルニア州マッサージライセンス、
日本カイロプラクティック協会認定カイロプラクター、
日本リフレクソロジー協会認定リフレクソロジスト、
一般社団法人疲労回復協会専任講師、
一般社団法人TCA専任講師、
一般社団法人パーフェクト整体認定整体師
星座
蠍座
趣味
仕事、サーフィン

治療の想い

施術家として17年、総施術数50000人以上の経験から、本当に手術や入院しなれば治らない怪我や病気は治すことは出来ませんが、それ以外の腰痛、ヘルニアは任せてください。

無理やりに動かすことや不安になる事は絶対にやりませんので安心してください。

あなたに苦痛のない笑顔の絶えない生活を提供することだけは絶対に達成したいと考えています。

治療家になるまで

前職は営業職から自動車のメカニックなどを経てこの業界に入る。

自動車のメカニックから車屋を開業しようとメカニック、板金と勉強を20代前半からやっていました。
開業予定で修行している29歳の時に、目の奥の重さと熱感が気になり病院に行くと、緑内障の診断が出ました。この診断に愕然としました、症状を調べると今後症状が悪化すると視野が狭くなり失明する可能性がある病気で生活に支障が出る事を知り自動車を修理する仕事ではこれからやって行けないと判断することとなりました。
自分は車業界で車を修理・販売をして多くの人達に喜んでもらおうと子弟関係のキツイ修行を積み重ねて来てすぐそこに一つの光が見えていた時に起こった出来事でした。
これからの人生どうしたら良いかと考える絶望の日々が続いている時に会社を辞めることを決心しました。

それが1つ目のターニングポイントとなり体を治す道に30歳の時に入ることとなりました。

なぜ、治療家になったのか?

目標も無くなんとなくでリフレクソロジー業界に入り現場を経てプロとして働くサロンスタッフの技術と意識研修を教育する講師になりました。このまま会社の一人として行くのか、毎日同じ事を教えて、こんな仕事の意味があるのかを自問自答するようになりました。

そんな時にニュージーランドで講師を頼みたいとの話しがあり、会社を辞めてニュージーランドで仕事をする事となりましたが、行ってみて仕事の内容が詐欺に近いことに気直すがつき日本に戻る事になりました。

帰って来た時に、ある女性の社長に自院のスタッフ研修の依頼を頼まれて受けたのが今の治療の道に入るきっかけになっています。

リラクゼーションの施術をしている時にお客さんから『腰痛が楽になった』とか『頭痛が無くなった』『ありがとう先生!本当にありがとう。』など聞く事が増え、その時に車を直していた時の事を思い出しました。

今までは車を直してもお客さんから直接『ありがとう!』と言われる事は殆ど無く、壊れた車を奇麗に直す事が嬉しくて、喜んで貰えてるんだと感じながら仕事に生き甲斐を感じていました。
でもこの仕事は直接、目の前のお客さんから『ありがとう。』の感謝の声が聞ける!こんな刺激の強い仕事があるんだと、頭を鈍器で殴られるくらいの衝撃を受けました。

僕は、中学は成績も悪く、警察にお世話になる事もあったり、褒められる事は殆どなく、まして感謝される『ありがとう』そんな言葉とは程遠い生活をしていました、高校卒業くらいの学歴しか無く会社の面接に行っても学歴で門前払い、そんな社会を見返してやろうと思い、会社員では一生平社員で安月給、バカ扱いで人生を終わらせたくないと心に強く刻みいつかは独立開業して世の中を見返してやろうと自分の好きな車業界に入りました。

でもこの病気と言う現実に直面しました。

その後は何となく仕事をしている日々がありのその時に『ありがとう』の言葉、もっと喜んで貰いたい、自分を必要としてくれる人がいるんだ!もっともっと頑張ってより多くの人達に必要とされたい!役に立ちたい!と思い、リラクゼーションではなく本気で苦しんでいる人達の力になりたい、多くの笑顔が見たいと心を動かされました。

なんとか母親が生きてる間に立派な姿をみせてあげたい

2つ目のターニングポイントとなる、カイロプラクティックの学校に2年行き今の施術のきっかけとなる手技を学びました。

学校のカリキュラムの一つにカリフォルニア州のマッサージライセンスが取得できる講義がありロサンゼルスの学校に短期研修に行きライセンスの取得をしました。

この時期は、色々な借金と学費を払いながらの生活で全くお金が無く、カイロプラクティックの専門学校に行きながら整形外科、接骨院を2院、整体院、講師と掛け持ちしながらの生活で財布の中身はいつも千円くらいしか無い状態が6年続きました。

そんな時期に母親の癌が発覚しました、病院に行った時には既に遅く末期癌で余命を告げられるこことなりました。母が生きている間には絶対に開業をしよう、親不幸で迷惑ばかりかけていた母親に自分の院を見せたい、今まで親孝行などした事のない自分が出来る最後の親孝行をしたい!この強い思いが開業する揺るがないきっかけになりました。

全くの資金がゼロの状態で銀行に融資の話しをお願いしにいきましたが実績がなく全て断られ八方塞がり状態でした。
でも絶対に諦めないと心に決めていると、ある人との出会いがあり金融公庫に口を聞いて貰う事が出来ました。駄目元で金融公庫に足を運び、父に保証人になってもらい何とか資金を借りる事が出来て36歳の時に開業する事となりました。

開院前に一度だけでしたが母を院に連れて行く事ができました、言葉は無かったですがその時の母親の安心したような笑顔は今も覚えています。

母親が他界して数年が経ち、もっと早くから勉強して色々な知識があれば、もっと早くに病院に行く様に進めたり、何かする事が合ったのではと考えて、2010年にもっと多くの患者さんを診たい、何処に行っても治らない、健康になりたい人の手助けがしたいと思い柔道整復師の学校に3年行き、国家資格を取得することができました。

昨年卒業と同時に整骨院へと変更してより多くの患者さんが診れる体勢が整いました。

本当に治せる技術を手にいれた

3つ目の1番大きなターニングポイントが今の施術の根底となる先生との出会いが2年前にあり、今の施術の核となる循環を回復し内蔵の機能を高める手技と出会いました。

その手技と出会うことがきっかけで、施術の内容がガラッと変わることとなりよりました。
体の異常の始まりは全てと言って良いほど循環不良からくる事が多く、筋肉や関節で循環障害がおこれば痛みやシビレが、各臓器で起これば病気になる可能性が高くなることが理解出来る様になっってきました。今では、血糖値が下がったり、血圧が正常になったり、冷え性が軽くなるなどの痛みやシビレ意外の体の中で起こっている症状の改善もみられるようになり、体の問題を抱えている患者さんの手助けが少しずつ出来るようになってきました。

今では、その技術を考えた先生が協会を設立し疲労回復協会の専任講師として全国の治療家の先生方を東京、大阪、名古屋の会場で教える立場にもなる事ができました。

25年4月より、お世話になった柔道整復師の先生の縁で沖縄県北谷町にちゃたん整骨院も開院することができ月に1度から2度沖縄に行き、スタッフの教育をしたり、患者さんの体も施術させてもらっています。

今、そしてこれから

この治療業界に入り17年間が経ちましたが、知り合う先生方の志の高さに影響されて今も月に最低2度は東京か大阪で継続的に技術セミナーを受け続けています。

2012年からは、一般社団法人疲労回復協会の講師の仕事をしながら、自院の勉強会を開催し志の高い整骨院、整体院の先生と月に2回研究会をやっています。

自分の院としての理念は、患者さんを幸せにする、痛みの無い体にして、健康な生活をおくってもらう体づくりを提供する事。

その事をかなえる事で、患者さんの生活の質を上げて楽しい、笑顔の絶えない日常生活をおくってもらう為に当院は生涯存続していきたいと考えています。

今後は、痛みの改善は勿論の事、内蔵機能を回復し自然治癒力(免役)を最大限高くし病気になりにくい体作りをする手伝いが出来るような施術法を今よりも、より強化するような勉強をし続けて行きたいと考えています。

佐藤 園子

始めまして

皆さん、初めまして。

受け付けをやらせて頂いております、佐藤園子と申します。

現在、短大2年生長女、高校2年生長男、中学3年生次男の母親で、ウサギ2匹、ワンコ2匹のママでもあります。

好きな事は、動物を見に行ったり、触れ合ったりする事や、お酒を飲むこと、模様替え、お洗濯、ぶらぶらお散歩などなどです

 

身体ケアのお仕事との最初の出会い

この世界に最初に出会ったのは、5年前でした。

私自身、ひどい肩こり、首コリ、頭痛に悩まされていて、通っていた接骨院さんに誘われ、働くようになりました。

最初は受付、経理、保険業務等をしておりましたが、様々な症状で悩んでいる患者様と接するうちに私も微力ながら患者様のケアのお手伝いができないかと思い、リフレクソロジー、ハンドマッサージ、フェイシャルマッサージの資格を取り、実際に施術もさせていただいておりました。

毎日とても充実した日々を送っておりましたが、ありがたい事に、患者様が増え、毎日閉院時間までいる事も少なくなくなりました。

この時、長女は14歳、次男に至ってはまだ9歳で母親がほとんどいない生活が寂しかったのか、少しずつ生活や性格に荒れが見られる様になってしまいました。

そこで、今、一番大切なのは子供たちとの時間だと気が付き、接骨院さんを辞め、子供たちとの時間も取れ、時間に融通のきく飲食店で働くことにしました。

そして・・・また身体ケアのお仕事へ

飲食店でも毎日忙しく充実した日々を送っておりましたが、とにかく走り回る程忙しいお店で、体力的にも限界を感じ、また人材も揃ってきたのもあり、転職を考えるようになりました。

その際、これが最後の転職になると思い、改めて自分自身を見つめ直しました。

今までは子供中心で子供のためにがんばってきましたが、そろそろ子供も手が離れてきて、親離れの準備をする年齢になってきました。

なのでこれからは、自分のために、自分がしたいことをしようと思い、今までで一番やりがいがあって好きなお仕事だった身体ケアのお仕事に戻ろうと決心しました。

19年間の子育ての中では、色々な悩み、葛藤、修羅場を経験してきました。

そんな実体験を元に、患者様の何気ないお悩みや愚痴を気軽に言って頂けるような存在になりたいと思っております。

また、少しずつアオラニさんの施術も勉強させて頂き色んな意味での患者様のケアをしていけたらいいなあと思っております。

よろしくお願いします。