スタッフ紹介

院長 伊藤 亨

誕生日
昭和49年1月10日
血液型
O型
星座
山羊座
趣味
読書(ビジネス書、感動する内容のもの、マンガ)、仕事?

幼少期から学生時代

岐阜県恵那市の自然豊かな田舎に三人兄弟(姉二人)の末っ子長男として生まれました。 穏和な家庭に育ちました。そのため、性格は温厚、争い事は嫌いというか、怖いので、ケンカらしい事もしたことありません。(根性がない?) 反抗期もなく、親から「もう少しヤンチャでもいいのに」と言われたことも。

小中と運動も勉強も普通、成績表は3 か4。 高校は普通科。 小学生の時は外でよく遊んでいましたが、中学生からゲームにはまり、インドア派に。 風邪をよくひいたり、アトピー持ちで少し体は弱かったでしょうか。

高校のマラソン大会の後も貧血になり保健室で寝てました。

可もなく不可もなく、いたって普通に過ごした後、食に興味があった私は、大学に行き食品の勉強をしました。 食品工業科学科という食品加工の勉強をするマニアな学科でした。

調理実習ではパンやみそ、はんぺんやこんにゃくも作りました。

大学時代は何かやるぞと思い、軽音楽部に入りました。 バンドを組んだ友人の希望もあって、いきなりハードロックをやることに。 バンド名は”メタルクィーン”でした。(笑)

担当はベース、渋い感じでカッコいいと思ったから。 一時は髪も伸ばしてました。若さって怖いですね!全然似合ってなかった。 この時から、ハードロック好きになりました。 もちろん、カラオケも好きです。 大学時代は音楽にはまってました。

卒業。そして、現実。

卒業後は人と関わりたいという思いもあって、惣菜屋に就職。 日々、売り上げをあげる為に働いていました。 ある時、パートさんにどんな惣菜が買いたいのか聞くと「今はアレルギーを持っている子供が多いから、添加物とか気にするかな」と。

私の働いていた所は、効率を優先するため、調理らしいことはほとんどなく、冷凍食品を揚げたり、加工された食品をパックに詰めたりするだけでした。

カゼも引きやすく、昔アトピーもあった私は、こんなんで良いのかと疑問を持ち始め、次第に健康への意識が強くなっていきました。 日々の業務にもんもんとするなか、このままこの仕事を続けるのが良いのかと思い始めていた時、帰り道で交通事故にあってしまいました。

過労で判断力が鈍っていました。

一歩間違えば死んでいたかも。

そんなこともあり、転職を考えるようになりました。

健康への意識が強くなっていた私は、何か健康に関する仕事はないか探しました。

そんな時、カイロプラクィックというものを知ります。

手技で人を健康にする。

何て素敵な仕事なんだ!
子供のころ、おばあちゃんに肩たたきしてあげるのが好きだった事を思い出した私は、思いきってこの業界に飛び込みました。

が、しかし 始めは理想とは程遠く、なかなか人を治療することが出来ませんでした。

学校で習った事と実際の現場では全然違っていたからです。

人の体は教科書どおりではなく、揉んだり、関節をボキッと矯正しても上手く治って行かなかったのです。 やっている事はただのマッサージ。気持ち良く揉めばそれでいいというものでした。

治療家を目指してきたのに現実は違う。

そんなことに嫌気がさし、一度この業界をやめようかと悩んでいたそんな時、今のオーナーに出会います。

オーナーに「今の自分には自信がない」と言うと オーナーは「心配しなくても大丈夫!」と力強く言ってくれました。 その一言に希望をもらい、もう一度頑張ってみようという気持ちになりこのアオラニで働くことになります。

今、そしてこれから

そして現在、この業界に飛び込んでから14 年という月日が流れました。

まだまだゴットハンドとはいかないですが、今はようやく治療というものが出来る様になったと思います。
今では疲労回復協会という団体で技術を教えるインストラクターまでさせて頂いております。 今はホントにこの仕事を選んで良かったと思っています。
「人生が変わりました」なんて言ってくださる方もいらっしゃいます。

私は今のオーナーに出会っていなかったら夢をあきらめ、この仕事を続けていなかったでしょう。

今度は私が出合った方を幸せにしていく順番だと、勝手に考えやっております。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

阿部 光輝

生年月日
昭和47年10月22日
血液型
B型
趣味
子ども達に遊んでもらう事・スーパー銭湯めぐり
資格
柔道整復師 巻き爪矯正師

幼少期から学生時代

父親が転勤族の為、転校が多く小学校だけで4回変わりました。そのため環境の変化に抵抗が無く新しい場所や新しい事にチャレンジすることに抵抗が無くなりました。

その中で、小学校四年生の時に母が亡くなり、母方の祖母の家に預けられることになったのですが、それが大阪市平野区という下町で、工場や長屋・文化住宅が多く、環境的にはあまり良くはない地域なのですが、そこの水が思いのほか合っていたのか、祖母の教育が良かったのかわからないですが、そこでの経験が現在の自分の考え方の基本になっていると思います。

その後中学は水泳をしていたのですが、高校・大学とラグビーを始めその時に、首・右肩・腰・右膝・右足首と怪我をして、その当時の先輩に整骨院を紹介してもらい通い出したのが、この仕事との最初の出会いでした。
その整骨院は大学の近所にあり、体育会系ご用達で外傷が多く、テーピングなどの応急処置をよく教えてもらい、人も役に立つ上に感謝される良い仕事だなと興味を持ったことを覚えています。

この仕事を志した理由

その後大学を卒業し、建設関係の営業として就職。岐阜や三重で仕事をしてきたのですが、激務からずっと体調がすぐれず、過労で倒れ人生初めての入院を経験したことから、自分の身体と健康という事を始めて意識したのを覚えています。

そのような経験から、ずっと本当にやりたいことは何なのかを考えるようになり、もっと何か人の役に立つ仕事がしたい、喜んでもらえる実感の持てる仕事がしたいとの思いから、この仕事をやりたいと思い一念発起し大阪の専門学校に入学したのですが、この頃に予定外の長男が生まれ最初に考えていた計画が崩れて、主夫・バイト・専門学校という忙しい三年間を過ごし、無事柔道整復師の国家資格取得することが出来ました。

挫 折

最初は何軒かの整形外科や整骨院での修業し、長女も生まれ経験を積んだことで、一度は兵庫県西宮市で単身赴任にて整骨院を開業したのですが、保険治療の毎日温めて電気を当ててマッサージの繰り返しだけでは、どうしても患者さんの体を治していくことができず、根本的な改善が見られない事が悔しくて、また、一身上の都合により、三年弱で閉院し治療家の道は諦めようと考え名古屋に帰って来ました。

その後は他の仕事に付き働いていたのですが、ラグビーの古傷である首の痛みから右腕に痺れが出始め、整形外科を回ってもレントゲンやMRIでは異常が無く、シップと痛み止めを処方されるだけで変化は無く、色々と評判の良い治療院やゴットハンドと呼ばれる所に通って治療を受けてみて、その場は痺れが無くなり良くなるけども、首や他の所に強い痛みが出て元に戻る事を繰り返してきました。

転 機

そんな時に、このアオラニでやっている「疲労回復整体」の評判を聞き、一度治療を受けたところ、最初の変化はさほど無かったのですが、今までの様に痛みがぶり返すことなく、少しずつ痺れが取れてきたことに驚いたことを覚えています。

これは、まず体の循環を整え、姿勢を矯正し、自分自身で身体を回復させる状態を作り出すことで、ゆっくりと確実に無理なく身体を回復させていく事の大切さを実感させてくれて、この治療法の素晴らしさに感動しました。そして一度は諦めていた本当に治せる治療家になるという夢をもう一度目指してみたいと考え、このアオラニ整骨院に出会い、御縁があり働かせてもれえるようになりました。

意気込み

そして、この方法ならば私と同じように、多くの病院で異常なしといわれシップや痛み止めしか処方されなかった人や、色々な所で治療を受けてきても治らなかった人の長年の悩みを解決でき、喜んでもらえるのではないかと思っていますし、私自身もう一度、本当の治せる治療家になるという夢に、真正面から向かう決心をし、頑張っていこうと考えています。

ですので、あきらめる前に当院の治療を一度受けてみてください。多くの方の長年の悩みを改善し、本来の健康な身体を取り戻すお手伝いを全力でさせて頂きます。

北村先生

幼少期から中学時代

子供の頃から体を動かすことが好きで、走るのも速く中学生の頃は学年で 1 番か 2 番だったと思います。体育の成績だけは良く、いつも 5 でした。
小学生の頃の夢は、テレビで野球中継を見ていたせいかプロ野球選手でした。近所の友達は週末はスポーツ少年団で野球をしてましたが、僕はというと物心つく頃から剣道をしていたというかさせられていました。だから野球をしたいなと思いつつ小学生の 6 年間は剣道をして過ごしました。

中学に行ったら剣道をやめて野球部に入ろうとなんとなく頭の中にありました。そんな中、小学五年の時に学校で課外授業と言って季節ごとに部活みたいなものがあって、そこでバスケというものに出会うことになります。初めは仲の良い友達がやるから僕も一緒にやろうという感じでした。短距離は得意でしたが、持久力のいるスポーツは苦手で楽しいけど辛いなと思いながらしていました。6 年生になると副キャプテンになり主力選手で市内の大会で優勝することができました。このことが転機になり中学に行ったら野球部に入ろ
うと思っていたのですが、バスケ部に入ることにしました。

だんだんとバスケが好きになり頭の中はバスケのことだけで、中学生活は部活をするために通っていたようなものでした。1 年の時から試合にも出させてもらって、楽しくてしょうがありませんでした。3 年の頃にはキャプテンとなり、地区大会でも準優勝して県大会に出場することができました。すごく充実していたのですが、ここで初めて大きな怪我をすることになります。捻挫です。それも剥離骨折と言って捻挫のひどいのをしました。ギブスで固定されて松葉杖の生活を 3 ヶ月間くらい経験しました。今思うと、この頃から順風満帆だったバスケ生活に暗雲が漂い始めたのかなと思います。

バスケ熱中した学生時代からの整体との出会い。

高校までは、全力でバスケをしていましたが大学に入ると部活という環境ではなく趣味でバスケを続けることになります。バスケでは限界を感じるようになりバスケに続く何か熱中できるものを見つけたいと思うようになりました。

しかし、なかなかそんなものは見つかりません。大学も 4 年通っても見つからず就職して町工場で働くこととなります。バスケは相変わらず趣味程度では続けていたので、たまに捻挫をしたり股関節が痛くなったりという体の状態でした。捻挫は、ある程度時間が経てば痛みは気にならなくなるのですが股関節は上手くはまっていない感じで鈍痛が常にありました。そんな時に友達から整体というものを教えてもらいました。ポキポキっとする整体です。あの施術を受けたときの感動は今でも覚えています。何より股関節がしっくりくるではありませんか。しかも気持ち良いのに驚きました。

これが整体との出会いで、背骨と骨盤を動かして人の体をコントロールできちゃうなんて、なんて凄いん技なんだと思い興味を持ちました。

これが今の僕がこの仕事をすることになった理由です。

工場で働きながら整体の学校に通いました。その時の先生に国家資格を取ったほうが良いと言われたので鍼灸師の資格を取りました。整体の学校を卒業した時にこの世界へ飛び込めば良かったんですが、勇気がなく飛び込めませんでした。その後に鍼灸師の資格を取ったときには、もう今飛び込まなかったら一生このままだと思い、今度は勇気を出して飛び込むことに成功しました。

毎日練習の日々

はじめは鍼灸接骨院に勤めることにしました。
学校ではある程度体の知識を学ぶことができました。
ただ実践では何ができるかわからない状態だと思ったので、とにかく経験が積めるところが良いと思い土日も営業しているところにしました。

まずマッサージを覚えるために毎日練習の日々が始まりました。肩などに余分な力が入ってしまって患者さんの体に刺激がうまく伝わらなかったり、練習で親指が悲鳴をあげてペットボトルの蓋を開けることができない時期もありました。
次第に指も慣れてきてペット
ボトルの蓋も開けられるようになりました。

挫折と転機

患者さんの施術に入らせていただくようになり、ただマッサージを繰り返す日々が続きます。患者さんとも仲良くなり自分のマッサージについて聞いてみることにしました。

施術後は気持ちよくなったと言ってはくれますが、次に来てくれる時にはいつも肩はガチガチです。マッサージの効果はどのくらいもちますか?と質問すると夕方までかなとさらっと答えて頂きました。
僕の技術などまだまだ未熟だとはわかっていましたが、その方が来ると汗をかきながら 15 分全力でマッサージをしました。

その結果、朝に施術に来られて夕方には元通りになってしまうと知ってガッカリしたことを今でも覚えています。
そこから、自分のしていることに疑問を持つようになりました。

このやり方では、患者さんは変わっていかないのでは…。

また、この時期に自分の食べたものが自分の体やエネルギーになるということを知りました。
この時もかなりの衝撃でした。

中学、高校とお腹が減れば胃袋を満たすためだけに何でも良いからとりあえず口に入れていたことを思い出しました。

この頃から、口に入れたものが体に影響を与え健康にも大きく関係してくると考えるようになりました。

アオラニ整骨院では、体が根本的に良くなるための方法を教わっています。

病院とのアプローチとは別の方法なので回復には時間がかかることもありますが、皆さんが持っている自然治癒力を最大限に活かせる状態を取り戻し、少しでも早くイキイキとした生活を取り戻せるお手伝いができると思っています。

よろしくお願いします。

柔道整復師 中野光典

生年月日
1969年11月3日
資格
柔道整復師、
カリフォルニア州マッサージライセンス、
日本カイロプラクティック協会認定カイロプラクター、
日本リフレクソロジー協会認定リフレクソロジスト、
一般社団法人疲労回復協会専任講師、
一般社団法人TCA専任講師、
一般社団法人パーフェクト整体認定整体師
星座
蠍座
趣味
仕事、サーフィン

治療の想い

施術家として17年、総施術数50000人以上の経験から、本当に手術や入院しなれば治らない怪我や病気は治すことは出来ませんが、それ以外の腰痛、ヘルニアは任せてください。

無理やりに動かすことや不安になる事は絶対にやりませんので安心してください。

あなたに苦痛のない笑顔の絶えない生活を提供することだけは絶対に達成したいと考えています。

治療家になるまで

前職は営業職から自動車のメカニックなどを経てこの業界に入る。

自動車のメカニックから車屋を開業しようとメカニック、板金と勉強を20代前半からやっていました。
開業予定で修行している29歳の時に、目の奥の重さと熱感が気になり病院に行くと、緑内障の診断が出ました。この診断に愕然としました、症状を調べると今後症状が悪化すると視野が狭くなり失明する可能性がある病気で生活に支障が出る事を知り自動車を修理する仕事ではこれからやって行けないと判断することとなりました。
自分は車業界で車を修理・販売をして多くの人達に喜んでもらおうと子弟関係のキツイ修行を積み重ねて来てすぐそこに一つの光が見えていた時に起こった出来事でした。
これからの人生どうしたら良いかと考える絶望の日々が続いている時に会社を辞めることを決心しました。

それが1つ目のターニングポイントとなり体を治す道に30歳の時に入ることとなりました。

なぜ、治療家になったのか?

目標も無くなんとなくでリフレクソロジー業界に入り現場を経てプロとして働くサロンスタッフの技術と意識研修を教育する講師になりました。このまま会社の一人として行くのか、毎日同じ事を教えて、こんな仕事の意味があるのかを自問自答するようになりました。

そんな時にニュージーランドで講師を頼みたいとの話しがあり、会社を辞めてニュージーランドで仕事をする事となりましたが、行ってみて仕事の内容が詐欺に近いことに気直すがつき日本に戻る事になりました。

帰って来た時に、ある女性の社長に自院のスタッフ研修の依頼を頼まれて受けたのが今の治療の道に入るきっかけになっています。

リラクゼーションの施術をしている時にお客さんから『腰痛が楽になった』とか『頭痛が無くなった』『ありがとう先生!本当にありがとう。』など聞く事が増え、その時に車を直していた時の事を思い出しました。

今までは車を直してもお客さんから直接『ありがとう!』と言われる事は殆ど無く、壊れた車を奇麗に直す事が嬉しくて、喜んで貰えてるんだと感じながら仕事に生き甲斐を感じていました。
でもこの仕事は直接、目の前のお客さんから『ありがとう。』の感謝の声が聞ける!こんな刺激の強い仕事があるんだと、頭を鈍器で殴られるくらいの衝撃を受けました。

僕は、中学は成績も悪く、警察にお世話になる事もあったり、褒められる事は殆どなく、まして感謝される『ありがとう』そんな言葉とは程遠い生活をしていました、高校卒業くらいの学歴しか無く会社の面接に行っても学歴で門前払い、そんな社会を見返してやろうと思い、会社員では一生平社員で安月給、バカ扱いで人生を終わらせたくないと心に強く刻みいつかは独立開業して世の中を見返してやろうと自分の好きな車業界に入りました。

でもこの病気と言う現実に直面しました。

その後は何となく仕事をしている日々がありのその時に『ありがとう』の言葉、もっと喜んで貰いたい、自分を必要としてくれる人がいるんだ!もっともっと頑張ってより多くの人達に必要とされたい!役に立ちたい!と思い、リラクゼーションではなく本気で苦しんでいる人達の力になりたい、多くの笑顔が見たいと心を動かされました。

なんとか母親が生きてる間に立派な姿をみせてあげたい

2つ目のターニングポイントとなる、カイロプラクティックの学校に2年行き今の施術のきっかけとなる手技を学びました。

学校のカリキュラムの一つにカリフォルニア州のマッサージライセンスが取得できる講義がありロサンゼルスの学校に短期研修に行きライセンスの取得をしました。

この時期は、色々な借金と学費を払いながらの生活で全くお金が無く、カイロプラクティックの専門学校に行きながら整形外科、接骨院を2院、整体院、講師と掛け持ちしながらの生活で財布の中身はいつも千円くらいしか無い状態が6年続きました。

そんな時期に母親の癌が発覚しました、病院に行った時には既に遅く末期癌で余命を告げられるこことなりました。母が生きている間には絶対に開業をしよう、親不幸で迷惑ばかりかけていた母親に自分の院を見せたい、今まで親孝行などした事のない自分が出来る最後の親孝行をしたい!この強い思いが開業する揺るがないきっかけになりました。

全くの資金がゼロの状態で銀行に融資の話しをお願いしにいきましたが実績がなく全て断られ八方塞がり状態でした。
でも絶対に諦めないと心に決めていると、ある人との出会いがあり金融公庫に口を聞いて貰う事が出来ました。駄目元で金融公庫に足を運び、父に保証人になってもらい何とか資金を借りる事が出来て36歳の時に開業する事となりました。

開院前に一度だけでしたが母を院に連れて行く事ができました、言葉は無かったですがその時の母親の安心したような笑顔は今も覚えています。

母親が他界して数年が経ち、もっと早くから勉強して色々な知識があれば、もっと早くに病院に行く様に進めたり、何かする事が合ったのではと考えて、2010年にもっと多くの患者さんを診たい、何処に行っても治らない、健康になりたい人の手助けがしたいと思い柔道整復師の学校に3年行き、国家資格を取得することができました。

昨年卒業と同時に整骨院へと変更してより多くの患者さんが診れる体勢が整いました。

本当に治せる技術を手にいれた

3つ目の1番大きなターニングポイントが今の施術の根底となる先生との出会いが2年前にあり、今の施術の核となる循環を回復し内蔵の機能を高める手技と出会いました。

その手技と出会うことがきっかけで、施術の内容がガラッと変わることとなりよりました。
体の異常の始まりは全てと言って良いほど循環不良からくる事が多く、筋肉や関節で循環障害がおこれば痛みやシビレが、各臓器で起これば病気になる可能性が高くなることが理解出来る様になっってきました。今では、血糖値が下がったり、血圧が正常になったり、冷え性が軽くなるなどの痛みやシビレ意外の体の中で起こっている症状の改善もみられるようになり、体の問題を抱えている患者さんの手助けが少しずつ出来るようになってきました。

今では、その技術を考えた先生が協会を設立し疲労回復協会の専任講師として全国の治療家の先生方を東京、大阪、名古屋の会場で教える立場にもなる事ができました。

25年4月より、お世話になった柔道整復師の先生の縁で沖縄県北谷町にちゃたん整骨院も開院することができ月に1度から2度沖縄に行き、スタッフの教育をしたり、患者さんの体も施術させてもらっています。

今、そしてこれから

この治療業界に入り17年間が経ちましたが、知り合う先生方の志の高さに影響されて今も月に最低2度は東京か大阪で継続的に技術セミナーを受け続けています。

2012年からは、一般社団法人疲労回復協会の講師の仕事をしながら、自院の勉強会を開催し志の高い整骨院、整体院の先生と月に2回研究会をやっています。

自分の院としての理念は、患者さんを幸せにする、痛みの無い体にして、健康な生活をおくってもらう体づくりを提供する事。

その事をかなえる事で、患者さんの生活の質を上げて楽しい、笑顔の絶えない日常生活をおくってもらう為に当院は生涯存続していきたいと考えています。

今後は、痛みの改善は勿論の事、内蔵機能を回復し自然治癒力(免役)を最大限高くし病気になりにくい体作りをする手伝いが出来るような施術法を今よりも、より強化するような勉強をし続けて行きたいと考えています。