院長 中野光典
- 生年月日
- 1969年11月3日
- 資格
- 柔道整復師、
カリフォルニア州マッサージライセンス、
日本カイロプラクティック協会認定カイロプラクター、
日本リフレクソロジー協会認定リフレクソロジスト、
一般社団法人疲労回復協会専任講師、
一般社団法人TCA専任講師、
一般社団法人パーフェクト整体認定整体師 - 星座
- 蠍座
- 趣味
- 仕事、サーフィン
治療の想い
施術家として17年、総施術数50000人以上の経験から、本当に手術や入院しなれば治らない怪我や病気は治すことは出来ませんが、それ以外の腰痛、ヘルニアは任せてください。
無理やりに動かすことや不安になる事は絶対にやりませんので安心してください。
あなたに苦痛のない笑顔の絶えない生活を提供することだけは絶対に達成したいと考えています。
治療家になるまで
前職は営業職から自動車のメカニックなどを経てこの業界に入る。
自動車のメカニックから車屋を開業しようとメカニック、板金と勉強を20代前半からやっていました。
開業予定で修行している29歳の時に、目の奥の重さと熱感が気になり病院に行くと、緑内障の診断が出ました。この診断に愕然としました、症状を調べると今後症状が悪化すると視野が狭くなり失明する可能性がある病気で生活に支障が出る事を知り自動車を修理する仕事ではこれからやって行けないと判断することとなりました。
自分は車業界で車を修理・販売をして多くの人達に喜んでもらおうと子弟関係のキツイ修行を積み重ねて来てすぐそこに一つの光が見えていた時に起こった出来事でした。
これからの人生どうしたら良いかと考える絶望の日々が続いている時に会社を辞めることを決心しました。
それが1つ目のターニングポイントとなり体を治す道に30歳の時に入ることとなりました。
なぜ、治療家になったのか?
目標も無くなんとなくでリフレクソロジー業界に入り現場を経てプロとして働くサロンスタッフの技術と意識研修を教育する講師になりました。このまま会社の一人として行くのか、毎日同じ事を教えて、こんな仕事の意味があるのかを自問自答するようになりました。
そんな時にニュージーランドで講師を頼みたいとの話しがあり、会社を辞めてニュージーランドで仕事をする事となりましたが、行ってみて仕事の内容が詐欺に近いことに気直すがつき日本に戻る事になりました。
帰って来た時に、ある女性の社長に自院のスタッフ研修の依頼を頼まれて受けたのが今の治療の道に入るきっかけになっています。
リラクゼーションの施術をしている時にお客さんから『腰痛が楽になった』とか『頭痛が無くなった』『ありがとう先生!本当にありがとう。』など聞く事が増え、その時に車を直していた時の事を思い出しました。
今までは車を直してもお客さんから直接『ありがとう!』と言われる事は殆ど無く、壊れた車を奇麗に直す事が嬉しくて、喜んで貰えてるんだと感じながら仕事に生き甲斐を感じていました。
でもこの仕事は直接、目の前のお客さんから『ありがとう。』の感謝の声が聞ける!こんな刺激の強い仕事があるんだと、頭を鈍器で殴られるくらいの衝撃を受けました。
僕は、中学は成績も悪く、警察にお世話になる事もあったり、褒められる事は殆どなく、まして感謝される『ありがとう』そんな言葉とは程遠い生活をしていました、高校卒業くらいの学歴しか無く会社の面接に行っても学歴で門前払い、そんな社会を見返してやろうと思い、会社員では一生平社員で安月給、バカ扱いで人生を終わらせたくないと心に強く刻みいつかは独立開業して世の中を見返してやろうと自分の好きな車業界に入りました。
でもこの病気と言う現実に直面しました。
その後は何となく仕事をしている日々がありのその時に『ありがとう』の言葉、もっと喜んで貰いたい、自分を必要としてくれる人がいるんだ!もっともっと頑張ってより多くの人達に必要とされたい!役に立ちたい!と思い、リラクゼーションではなく本気で苦しんでいる人達の力になりたい、多くの笑顔が見たいと心を動かされました。
なんとか母親が生きてる間に立派な姿をみせてあげたい
2つ目のターニングポイントとなる、カイロプラクティックの学校に2年行き今の施術のきっかけとなる手技を学びました。
学校のカリキュラムの一つにカリフォルニア州のマッサージライセンスが取得できる講義がありロサンゼルスの学校に短期研修に行きライセンスの取得をしました。
この時期は、色々な借金と学費を払いながらの生活で全くお金が無く、カイロプラクティックの専門学校に行きながら整形外科、接骨院を2院、整体院、講師と掛け持ちしながらの生活で財布の中身はいつも千円くらいしか無い状態が6年続きました。
そんな時期に母親の癌が発覚しました、病院に行った時には既に遅く末期癌で余命を告げられるこことなりました。母が生きている間には絶対に開業をしよう、親不幸で迷惑ばかりかけていた母親に自分の院を見せたい、今まで親孝行などした事のない自分が出来る最後の親孝行をしたい!この強い思いが開業する揺るがないきっかけになりました。
全くの資金がゼロの状態で銀行に融資の話しをお願いしにいきましたが実績がなく全て断られ八方塞がり状態でした。
でも絶対に諦めないと心に決めていると、ある人との出会いがあり金融公庫に口を聞いて貰う事が出来ました。駄目元で金融公庫に足を運び、父に保証人になってもらい何とか資金を借りる事が出来て36歳の時に開業する事となりました。
開院前に一度だけでしたが母を院に連れて行く事ができました、言葉は無かったですがその時の母親の安心したような笑顔は今も覚えています。
母親が他界して数年が経ち、もっと早くから勉強して色々な知識があれば、もっと早くに病院に行く様に進めたり、何かする事が合ったのではと考えて、2010年にもっと多くの患者さんを診たい、何処に行っても治らない、健康になりたい人の手助けがしたいと思い柔道整復師の学校に3年行き、国家資格を取得することができました。
昨年卒業と同時に整骨院へと変更してより多くの患者さんが診れる体勢が整いました。
本当に治せる技術を手にいれた
3つ目の1番大きなターニングポイントが今の施術の根底となる先生との出会いが2年前にあり、今の施術の核となる循環を回復し内蔵の機能を高める手技と出会いました。
その手技と出会うことがきっかけで、施術の内容がガラッと変わることとなりよりました。
体の異常の始まりは全てと言って良いほど循環不良からくる事が多く、筋肉や関節で循環障害がおこれば痛みやシビレが、各臓器で起これば病気になる可能性が高くなることが理解出来る様になっってきました。今では、血糖値が下がったり、血圧が正常になったり、冷え性が軽くなるなどの痛みやシビレ意外の体の中で起こっている症状の改善もみられるようになり、体の問題を抱えている患者さんの手助けが少しずつ出来るようになってきました。
今では、その技術を考えた先生が協会を設立し疲労回復協会の専任講師として全国の治療家の先生方を東京、大阪、名古屋の会場で教える立場にもなる事ができました。
25年4月より、お世話になった柔道整復師の先生の縁で沖縄県北谷町にちゃたん整骨院も開院することができ月に1度から2度沖縄に行き、スタッフの教育をしたり、患者さんの体も施術させてもらっています。
今、そしてこれから
この治療業界に入り17年間が経ちましたが、知り合う先生方の志の高さに影響されて今も月に最低2度は東京か大阪で継続的に技術セミナーを受け続けています。
2012年からは、一般社団法人疲労回復協会の講師の仕事をしながら、自院の勉強会を開催し志の高い整骨院、整体院の先生と月に2回研究会をやっています。
自分の院としての理念は、患者さんを幸せにする、痛みの無い体にして、健康な生活をおくってもらう体づくりを提供する事。
その事をかなえる事で、患者さんの生活の質を上げて楽しい、笑顔の絶えない日常生活をおくってもらう為に当院は生涯存続していきたいと考えています。
今後は、痛みの改善は勿論の事、内蔵機能を回復し自然治癒力(免役)を最大限高くし病気になりにくい体作りをする手伝いが出来るような施術法を今よりも、より強化するような勉強をし続けて行きたいと考えています。
副院長 伊藤 亨
- 誕生日
- 昭和49年1月10日
- 血液型
- O型
- 星座
- 山羊座
- 趣味
- マンガ、動画を見ること、セミナー巡り
幼少期から学生時代
岐阜県恵那市の自然豊かな田舎に三人兄弟(姉二人)の末っ子長男として生まれました。 穏和な家庭に育ちました。そのため、性格は温厚、争い事は嫌いというか、怖いので、ケンカらしい事もしたことありません。(根性がない?) 反抗期もなく、親から「もう少しヤンチャでもいいのに」と言われたことも。
小中と運動も勉強も成績は普通、成績表は3 か4。 高校は普通科。 可もなく不可もなくって感じの少年でした。
小学生の時は外でよく遊んでいました。虫なんかよく捕まえていましたね。春は蝶々、夏セミやホタル、秋は赤トンボやコオロギ取ってましたね。
あとは「ポコペン」って遊びと、サッカーをひたすらしてました。
あとキン肉マンが大好きでした。友情パワーとかめちゃ憧れでした。キン肉マン消しゴム、通称キン消しを良く集めてましたね。
中学生からはゲームにはまり、インドア派になりました。ファミコンにどっぷりはまり、友達の家に行っては良くファミスタをやっていました。ただ、風邪をよくひいたり、アトピー持ちで少し体は弱かったでしょうか。
高校でもゲーム好きのインドア派は変わらず、PCエンジン、メガドライブ、プレイステーションと買い替えていました。
部活も文系、五目並べクラブという名の帰宅部、体力が無く、マラソン大会の後も貧血になり保健室で寝てる事もありました。
特技らしい特技もなく、いたって平和に過ごした後、衣食住の仕事なら安定しているだろうという安易な考えと、食べる事が好きという理由で食品の勉強が出来る大学に行きました。 食品工業科学科という食品加工の勉強をするマニアな学科でした。
調理実習ではパンやみそ、はんぺんやこんにゃく、しょうゆも作りました。簡単なものしか作れませんが今でも料理することは好きです。(今は自動調理鍋ヘルシオホットクックが欲しい)
大学時代は何かやるぞと思い、軽音楽部に入りました。 バンドを組んだ友人の希望もあって、いきなりハードロックをやることに。 バンド名は”メタルクィーン”でした。(笑)
担当はベース、渋い感じでカッコいいと思ったから。 一時は髪も伸ばしてました。若さって怖いですね!全然似合ってなかった。 この時から、ハードロック好きになりました。 もちろん、カラオケも好きで良く行ってました。 大学時代は音楽にはまってました。
卒業。そして、現実。
卒業後は人と関わりたいという思いと勉強したことを生かしたいと思い、惣菜屋に就職。 天ぷらを揚げたり、寿司を握ったり巻いたりしてました。
日々、売り上げをあげる為に懸命に働いていました。 ある時、パートさんにどんな惣菜が買いたいのか聞くと「今はアレルギーを持っている子供が多いから、添加物とか気にするかな」と。
私の働いていた所は、効率を優先するため、調理らしいことはほとんどなく、冷凍食品を揚げたり、加工された食品をパックに詰めたりするだけでした。
大学での食品加工の勉強をしていたので、企業が食中毒を出すととんでもないことになる事はわかっていました。会社がつぶれるぐらいの損害になる。だから添加物を入れ出来るだけ日持ちするようにする、悪くならないようにする。
ある程度は仕方のない事だと思っていました。
でも現実はそれで苦しんでいる人がいる。
カゼも引きやすく、昔アトピーもあった私は、こんなんで良いのかと疑問を持ち始め、次第に健康への意識が強くなっていきました。健康系雑誌なんか良く買って読むようになっていきました。
日々の業務にもんもんとするなか、このままこの仕事を続けるのが良いのかと思い始めていた時、帰り道で交通事故にあってしまいました。車が廃車になるぐらいの事故でした。
過労で判断力が鈍っていたと思います。
一歩間違えば死んでいたかも。
そんなこともあり、転職を考えるようになり、健康への意識が強くなっていた私は、何か健康に関する仕事はないか探すようになりました。
そんな時、カイロプラクィックというものを知ります。手技で人を健康にする。何か良い仕事だなー。
そういえば、子供のころ、よくおばあちゃんに肩たたきしてあげていたなー。喜んでもらえる事がうれしかったなー。なんて事を思い出しました。
もしかして私はこの仕事が向いているんでは?と思うようになり、思い切ってこの業界に飛び込みました。
恵那から名古屋まで、カイロプラクティックの専門学校に通いました。2年間みっちり勉強と実技練習に明け暮れました。始めてやる気を出して勉強しましたね(笑い)
2年という月日もあっという間に過ぎ、いよいよ現場デビューとなります。
が、しかし始めは理想とは違っていました。
実際の現場では学校で習った事とは違い、なかなか体を良くしていく事が出来ませんでした。
人の体は教科書どおりではなく、揉んだり、関節をボキッと矯正しても簡単に治っていくというものではありませんでした。
下積みが大切だと思い、更なる勉強を重ねながらその後3年勤務地を変えながら頑張りました。恵那から名古屋市南区まで通勤したこともあります。それでも現場では相変わらずの状態でした。
治療家を目指してきたのに現実は違う。いつになったら自分の理想に近づけるのだろうか?
そんなことに疲れを感じるようになり、一度この業界をやめようかと悩む様になっていました。
そんな時、今のオーナーに再会します。
オーナーに「今の自分は治療に自信がない」と言うと オーナーはただ「心配しなくても大丈夫!」と力強く言ってくれました。 その一言に希望をもらい、この人の下でもう一度頑張ってみようという気持ちになりアオラニで働くことになります。
今、そしてこれから
そして現在、この業界に飛び込んでから16 年という月日が流れました。
まだまだゴットハンドとはいかないですが、今はようやく治療というものが出来る様になったと思います。
以前は疲労回復協会という団体で技術を教えるインストラクターを、今はアイセラピスト専門学院名古屋校・校長として技術指導もさせて頂いております。
いろいろありましたが、今はホントにこの仕事を選んで良かったと思っています。
今まで「人生が変わりました」なんて言ってくださる方もいらっしゃいます。
私は今のオーナーに出会っていなかったら夢をあきらめ、この仕事を続けていなかったでしょう。
今度は私が出合った方を幸せにしていく順番だと、勝手な使命感を感じてやっております。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
北村 優
- 出身
- 大府市
- 資格
- 鍼灸師
- 趣味・今ハマっていること
- 石亀
幼少期から中学時代
子供の時のことを思い出してみると週末に剣道をしていました。両親の話だと防具が歩いてるみたいだったと言うくらい幼い頃から剣道をしていました。剣道は好きではなかったんですが、小さい頃からしていたおかげで鍛えられたのか体育の成績は良かったです。だから今では感謝しています。
運動することが好きで、テレビの影響と近所のみんなで集まって野球をしていたこともありプロ野球の選手になりたいなと夢見るようになりました。土日に行われている野球のスポーツ少年団に入りたかったのですが、小学校の6年間は剣道をしていたのでかないませんでした。
小学校では、夏は水泳・秋は陸上・冬はバスケと季節ごとに行われるクラブ活動があったので運動好きな僕は全てに参加してました。これらのクラブ活動は全て市内の他の小学校との大会につながるものでした。
水泳と陸上は他の学校が強くて特に良い成績を残せませんでした。ただバスケットは、優勝することができました。
これがきっかけで中学では野球部に入ろうと何となく決めていたのですが、バスケット部に変わりました。
中学に入りバスケにますますのめり込むようになります。この頃にチームメイトから貰った1本のビデオから衝撃を受けます。当時、バスケは好きでしたがアメリカがバスケの発祥の国だとか、1番強いとか、プロがあるということなど全然知識がありませんでした。そのビデオは始まるなり、黒人選手のダンクの映像が飛び込んできました。「なんだこれは〜」ビックリしました。大きな人達がパワーとスピードを兼ね備え動き回りダンクあり、ノールックパスありと全てが格好良く見えました。バスケは自分がするのはもちろん楽しいのですが、見る楽しみも覚えてしまいました。大学の時に、憧れの選手マイケル・ジョーダンを生で見てみたいと思いアメリカまで行く程でした。
バスケに熱中した学生時代から整体との出会い。
中学から高校まではバスケが楽しくて部活をしに学校へ行っていたようなものでした。
メンバーにも恵まれ好きで打ち込んでいたこともあり中学の時も高校の時も何とか県大会までは行けるくらいの成績でした。
個人的にはキャプテンをしたりがんばっていましたが、中学2年の時に大きな怪我をします。右足首捻挫による骨折です。それまで楽しくバスケをしてきて怪我というものをしたことがなかったのですが、これが僕にとっては転機になったと思います。
捻挫をして1ヶ月くらいギプス生活をして、ギプスが外れると兎に角バスケが早くしたかったので足首が治りきる前に部活に復帰してしまいます。このことがこれから先のバスケ生活の中で何度も何度も捻挫を繰り返すことにつながってしまったと思います。
捻挫を繰り返しているうちに、足首の痛みはもちろんのこと股関節にも違和感を抱えるようになります。股関節はひどい時は痛みを感じますが、普段は違和感程度です。この違和感は寝る時などじっとしている時に感じやすく常に気になる存在になっていました。
そんな時に出会ったのが整体です。僕の体のこの嫌な違和感が整体をすると取れてしまいます。常に股関節のはまりが悪い感覚がありストレッチをしたり指圧をしたりして紛らわしていたのですが、整体を受けると股関節がしっくりはまり快適に過ごすことができました。これにも衝撃を受けました。
よく考えてみるとこれが、僕の整体師としての原点です。
整体を受けるようになったのは、就職してからだったと思います。中学、高校はバスケ命って感じでしたが、怪我もあり限界も感じ大学以降は趣味でバスケをしていました。趣味でバスケを続けていても捻挫はたびたびしていました。長年のバランスの悪さから股関節に不調が出るようになってしまいました。そんな時に友達が整体を受けているというので紹介してもらったのが初めての整体だったと思います。整体を受けると嘘のように違和感がなくなります。これは良いもんだと思い定期的に通うようになりました。この時は、体が楽になり体を気にせずバスケができるくらいの気持ちでした。ただ何年か経って、この技術は凄いなと思うようになりました。趣味ながらもバスケを続けていて、上手くなるにはとか強くなるにはと考えると筋トレで体を強化しようと考えていたのも影響していると思います。それで、もっと体のことについて知りたい勉強したいという思いが強くなり整体を勉強することにしました。
毎日練習の日々
整体の学校では解剖学の勉強が中心で骨、筋肉、神経について学び実技の練習をしました。この時は、仕事をしながら週末に勉強に行くという生活を送っていました。整体の学校を卒業してその道へとなるはずだったんですが、転職する勇気がでずそのままの生活を続ける毎日でした。整体の学校へ通っている時に国家資格を取ったほうが良いよという先生のアドバイスが頭の中に残っていました。
そこでもう一度、鍼灸師の資格を取るために専門学校に通うことにしました。
専門学校は3年間で、仕事をしながら夜間の学校へ通いました。1年目は新しい刺激を受け楽しく勉強してました。2年目になると国家試験のことを意識するようになります。このままでは、やばいと思い自分なりに猛勉強をしたことを覚えています。3年目は少し疲れてきて何とか持ちこたえ無事に試験に合格しました
はじめは鍼灸接骨院に勤めることにしました。
学校ではある程度体の知識を学ぶことができました。
ただ実践では何ができるかわからない状態だと思ったので、とにかく経験が積めるところが良いと思い土日も営業しているところにしました。
まずマッサージを覚えるために毎日練習の日々が始まりました。肩などに余分な力が入ってしまって患者さんの体に刺激がうまく伝わらなかったり、練習で親指が悲鳴をあげてペットボトルの蓋を開けることができない時期もありました。
次第に指も慣れてきてペット
ボトルの蓋も開けられるようになりました。
挫折と転機
患者さんの施術に入らせていただくようになり、マッサージを繰り返す日々が続きます。患者さんとも仲良くなり自分のマッサージについて聞いてみることにしました。
施術後は気持ちよくなったと言ってはくれますが、次に来てくれる時にはいつも肩はガチガチです。マッサージの効果はどのくらいもちますか?と質問すると夕方までかなとさらっと答えて頂きました。
僕の技術などまだまだ未熟だとはわかっていましたが、その方が来ると汗をかきながら 15 分全力でマッサージをしました。
その結果、朝に施術に来られて夕方には元通りになってしまうと知ってガッカリしたことを今でも覚えています。
そこから、自分のしていることに疑問を持つようになりました。
このやり方では、患者さんは変わっていかないのでは…。
阿部 貴則
- 誕生日
- 1987年7月13日
- 血液型
- A型
- 趣味
- サッカー サイクリング
- 星座
- 蟹座
自律神経失調症との出会いと戦い
以前私は整体師とは全く無縁の、某大学大学院の研究室で炎症・免疫関連の研究職の仕事をしておりました。毎日早朝から夜遅くまで、休日を返上して研究室に閉じこもって研究に没頭しておりました。しかし研究成果や論文投稿がうまく進まず、焦るばかりで、肉体的にも精神的にもボロボロになっておりました。そんなある時、家で食事を取っていた時、突然胸あたりが苦しくなると同時に頭の中が「ぽわ〜ん」と軽くなった瞬間、汗や動機が急に激しくなり、「もしこのまま自分の体の力を抜いてしまったら死んでしまうのではないか」という恐怖感、不安感が襲い、パニックになり倒れ込んでしまいました。しかし10分ぐらい経つと少しずつ落ち着きを取り戻すことができ、そのあとは何事もなかったかのように元の状態に戻りました。その時私は「疲れてるのかな」、「ストレスを溜め込みすぎているのかな」と思うだけに留まりました。しかしその「謎の現象」は引き続き起こり、胸の苦しみや激しい動機だけでは収まらず、電車や車など乗り物に乗っている時や人混みの多いところにいる時に突然「呼吸困難」になったり、食事をする時にご飯を飲み込もうとしても喉に引っかかるような感じがしてうまく飲み込めず、最終的にはお水やお味噌汁で一気に食べ物を流し込むようにして苦労しながら食事を摂るようになりました。さすがに仕事を優先していた私も「病院へ行かないと危ない」と焦り、内科、耳鼻咽頭科、呼吸器内科、消化器内科などたくさん診てもらいましたが、どこにも異常なし。検査も、レントゲン、血液検査、MRIなどを受けましたが、どこにも異常なし。最終的には「心療内科」に回され、そこでようやく医師から「自律神経失調症」と診断されました。初めて聞く症状名に驚きを隠せませんでしたが、何故かその時不思議と「安心感」を感じました。ようやく「今の自分の体の状態」を認識することができたからです。
しかしそこで私が受けた自律神経失調症に対する治療法は、担当医と少し会話をして、後は抗うつ薬を処方されるだけで、症状に何も改善が感じられませんでした。そんなボロボロな状態で9年間苦しみながら、研究成果のプレッシャーと上司からのプレッシャーに耐えながら、しかし親や友達からの励ましや協力のおかげで何とか日々生活を過ごしてきました。
危機が好機へ
ある日、親からの電話で「自律神経を整えてくれる整体院があるらしいよ」と教えてもらい、早速インターネットで調べると近くに自律神経失調症を診てくれる整体院があったので、早速連絡を取って行ってみることにしました。私は整体という施術を受けることが生まれて初めてだったので緊張と不安でいっぱいでしたが、そこでの整体師さんは私の症状やこれまでの経緯の話を最後までしっかりと真剣に聞いてくださり、そして私のボロボロな体全体を整えてくれました。その結果、体の内部循環が整い始めたせいか、症状が少しずつ波を打つように改善していき、症状が原因で乗ることが怖かった電車や車なおどの乗り物にも少しずつ乗れるようになっていきました。また自分自身の考え方も少しずつ変化していき、何事もネガティブに考えがちでしたが少しずつポジティブに考えられるようになり、そのおかげで仕事の負担も少しずつ減っていきました。視野が広くなった私は次第に「この自律神経失調症と闘病した経験を、同じように苦しんでいる人々に役立てたい。」「私もあの整体師さんのように自律神経失調症で苦しまれている人々を助けたい。」と考えるようになりました。
そして私はこれまでに自分で積み重ねてきた約9年間の研究成果・実績(博士号取得、論文投稿、学会発表など)を全て捨てて、自律神経を整えられる整体師になることを決意しました。これを決意するのにたくさん悩み、たくさんの人と相談し、たくさんの時間がかかりました。そして研究の仕事をしながら、整体学校へ通い、そこで猛勉強しました。そしてその恩人である整体師さんから「僕の知り合いに阿部くんが目指しているような自律神経を整えることで体を施術する整体院が名古屋にあるのだけど一度会って面接を受けてみればいいよ」と強く推してくださったのがアオラニ接骨院でした。こうしてアオラニ接骨院との運命的な出会いにより、今私はここで「笑顔」で施術しています。
経験は財産
今までの苦労を振り返ってみると、自律神経失調症の経験は大変苦しかったですが、その経験があったからこそ、研究職から整体師への転職、アオラニ整骨院との出会い、そしてその経験を武器として施術することができるので、今では感謝でしかありません。私はこの貴重な経験が少しでも多くの人の役立てられるように日々全力で施術していきます。
佐藤 園子
初めまして
皆さん、初めまして。
美容整体、循環整体、カウンセリングを担当させて頂いております、佐藤園子と申します。
現在、社会人長女、大学2年長男、高校3年生次男の母親で、ワンコ2匹のママでもあります。
好きな事は、動物を見に行ったり、触れ合ったりする事や、模様替え、お洗濯、ぶらぶらお散歩などなどです。最近は筋トレや水泳も好きでお休みの日は通っています
身体ケアのお仕事との最初の出会い
この世界に最初に出会ったのは、5年前でした。
私自身、ひどい肩こり、首コリ、頭痛に悩まされていて、通っていた接骨院さんに誘われ、働くようになりました。
最初は受付、経理、保険業務等をしておりましたが、様々な症状で悩んでいる患者様と接するうちに私も微力ながら患者様のケアのお手伝いができないかと思い、リフレクソロジー、ハンドマッサージ、フェイシャルマッサージの資格を取り、実際に施術もさせていただいておりました。
毎日とても充実した日々を送っておりましたが、ありがたい事に、患者様が増え、毎日閉院時間までいる事も少なくなくなりました。
この時、長女は12歳、次男に至ってはまだ7歳で母親がほとんどいない生活が寂しかったのか、少しずつ生活や性格に荒れが見られる様になってしまいました。
そこで、今、一番大切なのは子供たちとの時間だと気が付き、接骨院さんを辞め、子供たちとの時間も取れ、時間に融通のきく飲食店で働くことにしました。
そして・・・また身体ケアのお仕事へ
飲食店でも毎日忙しく充実した日々を送っておりましたが、とにかく走り回る程忙しいお店で、体力的にも限界を感じ、また人材も揃ってきたのもあり、転職を考えるようになりました。
その際、これが最後の転職になると思い、改めて自分自身を見つめ直しました。
今までは子供中心で子供のためにがんばってきましたが、そろそろ子供も手が離れてきて、親離れの準備をする年齢になってきました。
なのでこれからは、自分のために、自分がしたいことをしようと思い、今までで一番やりがいがあって好きなお仕事だった身体ケアのお仕事に戻ろうと決心しました。
3人の子育ての中では、色々な悩み、葛藤、修羅場を経験してきました。
不登校も経験している事から現在起立性調節障害でご来院のお子様とお母様のカウンセリングも行っております
またその他の症状の方もお悩みなどを別室でお話させて頂いております
お辛い思いは誰かに吐き出しただけでもずいぶん楽になる事もあります
些細な事でも構いませんのでなんでもお伝えいただければと思います
よろしくお願い致します